走高跳(真鍋周平)

現役国立大学生、それもスポーツ推薦とかではない一般入試で進学した大学生が2m25をマークし、2004年のアテネオリンピック出場を賭けて、参加標準2m27をクリア出来るかどうかが一時期TVでも話題になるほどであった。
結果としては2m27をクリアできず、オリンピックは夢と化したが、色々な面で話題となったものの、今では誰も取り上げる人はいない。有名になるのは一瞬だが、注目もされなくなるのはあっという間という、世知辛い世の中である。

その人、真鍋周平選手は1982年、香川県に生まれた。身長187㎝の長身であり、走高跳をしていたから長身になったのか、長身だから走高跳を始めたのかは定かではないが、日本人としては比較的恵まれた体型である。
なんと小学5年生からすでにこのマイナーな走高跳を始めており、この時で1m43㎝の香川小学校記録(小5での)をマークしている。
このまま順調に2mジャンパーに、と思ったのだが、中1で165㎝、中2で176㎝と普通の人ならなかなかの記録ではあるが、小学校から天才的記録をマークしていた真鍋選手としては、予想より低調な記録であった。何せ、早い人なら、中2で2mを超えている人もいるからである。彼のHPなどを見ると、この時代は自分の身長以上の高さを超えられるようになるとはとても思えなかったようである。
しかし、中3に入り、走高跳で有名な方に少し指導を受け、踏切距離を遠くするなど、アドバイス通りに練習したところ、あっという間に2mを超えるようになり、2m04までマークした。これは1986年に2m07を跳んでしまった船橋弘司がいるため、香川県記録を破ることができなかったものの、香川県の中学歴代2位、日本中学歴代12位の記録である。
高校に入ってもますます記録を伸ばし、高3では2m20の2015年現在でも歴代6位に残る記録をマークした。もちろん香川県高校記録であり、当時の高校生の中ではぶっちぎりの記録であり、インターハイも何の問題もなく制覇した。

当然、走高跳歴代に残るような記録の持ち主であるため、各陸上有力校から推薦が多数来たが、香川県の進学校である高松高校に在籍していたため、一般入試で大阪大学工学部に現役合格した。(のちに、弟も大阪大学に進学する。彼も走高跳をしていた)。受験勉強によるブランクのため、入学後は記録低迷したが、あまりスポーツに力を入れていない国立大学の劣った環境下においても、独自の工夫で練習し、大学3年の時には日本人トップの2m25㎝の記録をマークした。ここから、オリンピック候補と注目され、しかも大阪大学という難関大学在籍していることから、TV的には美味しい、ということで、取材を多く受けるようになってきた。応用物理学科であり、走高跳のクリアランスを力学的に解析し、頂点をバーのやや手前にした方が高い高さをクリアできるという結果を算出するなど、今までのスポーツ選手にないクレバーさが話題になった。
結局はオリンピック出場はかなわず、大学院修士課程修了後はトヨタ自動車へ就職。その後も試合に出場するも、練習十分でないためか、何とか2mを超える程度の記録にとどまっている。

しかし、走高跳への愛情はすざましいものがあり、走高跳の理論書を自ら編纂し、HP上で公開を行っている。当時まともな技術書などほとんどなかったので、本書が優秀な日本人ハイジャンパーの輩出に役立てられ、我々の期待に応えられる選手が多く生まれることを期待している。
真鍋周平選手の走高跳理論関係HP⇒満天下別館

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