走高跳(戸邉直人)

世界陸上北京大会も始まり、多少なりとも陸上競技にも興味を持たれるだろうという予測の基、ひょっとしたら、注目を受ける可能性のある走高跳日本代表選手について、述べておくことにする。
この競技、近年は、オリンピック、世界陸上等の国際大会で活躍した日本人選手は体格面での不利なためか皆無で、戦前を除くと、女子で1992年、佐藤恵がバルセロナオリンピックで1m92を跳び7位入賞したくらいしか実績がない。

2m30台中盤の記録を出せば世界制覇できるという低迷期を乗り越え、2m40以上の記録を超える選手が急増し、アウトドアで2m40以上の記録を現在では12人がマークしており、そのうち、5人が2014年には2m40オーバーの記録をマークしている(他にもインドアを入れるともう1人2m40を超えている)。
この状況に対し、2006年に醍醐が2m33の日本記録をマークしたものの、君野の歴代2位の記録はなんと1993年と22年前の記録であり、日本走高跳界も暗黒状態にあった。しかし、この状況下、戸邉2m31と日本で5人目の2m30ジャンパーとなり、江藤2m28、平松2m28をマークし、この筑波大関係3人が標準記録を突破し、北京世界陸上代表となった。さらに、長い間日本の第一人者であった高張も2m28の自己記録をマークしていたものの、代表を逃すというレベルアップとなった。

その中でも、2m30以上を既に4回マークしており、記録上では他の日本人選手をリードしている戸邉直人選手に注目してみる。
彼は走高跳で必要とされる身長も193㎝と長身であり、体格的にも恵まれている。
野田市立中央小学校4年から走高跳を始めた。野田二中の中学入学時には1m50の記録だったのが、中3では一気に才能が開花し、関東大会の大雨の中1m97を跳び、全国大会も制覇してしまう。
専大松戸高に入学し、高1の時の全日本ユースでは2m08で2位に入り、注目を浴びることとなった。高2で優勝を目指した高校総体の際、肺に穴が開く気胸を発症し、決勝の途中で棄権した。しかし、高3のインターハイでは2m10を跳び、他の選手が全て脱落したことにより優勝を決めると、一気に2m18までバーを上げると、それもクリアし、他の選出との格の違いを見せつけ、圧勝した。2m23の日本記録へバーを上げ挑戦したものの、この時は失敗したが、後に、高校在学中の2009年に2m23の日本高校新記録をマークし、1989年境田の2m22の高校記録をなんと20年ぶりに更新した。
大学は陸上の名門筑波大学へ進学した。大学時代は高校の活躍からすると記録が伸び悩み、ようやく、大学4年で2m28をマークした。
そして大学院進学し、ヨーロッパを拠点とし、活動。ダイヤモンドリーグにも参戦し、レベルの高い選手と競いながら、2m31までベストを伸ばす。大学院では自らを実験台とし、走高跳を極め博士号取得を目指す文武両道タイプである。

海外での試合経験も豊富であり、一流選手との交流もあり、特に北京世界陸上で緊張することもないだろう。他に筑波大学で一緒に練習した衛藤、平松がいることも心強く、走高跳で入賞できるチャンスも大きいと思われる。

※北京世界陸上では残念ながら2m26で予選落ちとなったが、シーズンベスト2m29からすると、ある程度順当な所に落ち着いてしまったのかもしれない。ただ、制空距離も頭上38㎝と、まだジャンプが完成している感じではないので、東京オリンピック辺りで大化けするのを期待している。

走高跳(イワン・ウホフ)

イワン・ウホフ(Ivan Ukhov:ロシア語表記はИва́н Сергее́вич У́хов)は1986年ロシア生まれで、身長192㎝ある。
この身長から生粋のハイジャンパーのように思うが、7歳から16歳まではバスケットボールをしており、地域で一番の選手だった。16歳の時、バスケットのコーチと口論になり、個人競技ということで陸上競技を選んだ。その時、ガタイも良かったため(今でも走高跳選手の割にはがっちりしている)、最初に円盤投げをすることになった。1年後走高跳に出会い、コーチもなしに、2004年にロシアジュニア大会で2m12㎝を跳び勝利する。その時点で円盤投げは辞めてしまい走高跳に専念することとなった。翌年2005年には2m30をクリアし、2009年には史上11人目の2m40ジャンパーとなった。現在の屋外ベスト2m41、屋内ベスト2m42であり、世界ではバーシム、ボンダレンコと並び、走高跳3強と言ってもよい存在となっている。
2012年のロンドンオリンピック決勝では、他の選手が記録低調のなか、ただ一人やけくそ気味にバーを2m36、2m38と失敗しながらも上げてくるエリック・キナードを軽くいなし、2m38をただ一人クリアして圧勝して、金メダルを獲得した。

彼のジャンプの特徴はものすごい背中の折り方を行い、それを強靭な背筋力で引き揚げ、とてもクリア出来なさそうなところからバーをクリアしていく点にある。あのバーの上でのクリアランスは誰も真似のできない領域にある。

ウホフのシューズは普通の高跳び選手の使うものではなく、他のスプリント系選手の使う、踵にピンの無い物を使っている。このため、踏切足のグリップ力が弱く、雨の状況では力が出しにくい。そのため、天候を気にしなくてよい屋内競技の方が安定してハイレベルの記録が出せている。

ウホフにはシューズ以外にも色々エピソードがあり、話題には事欠かない。
・ロンドンオリンピックでユニフォームをなくす
オリンピックで同じく決勝に進出したロシアのシルノフからTシャツを借りて出場するというハプニングに見舞われる。しかし、そんなことをモノともせず、金メダルを獲得した。
・2008年陸上ローザンヌ国際の大会で飲酒により出場停止措置を受ける。

走高跳(クリスチャン・オルソン)

クリスチャン・オルソン:1980年生まれ、スウェーデン出身。身長192㎝の長身で、2003年世界陸上三段跳、2004年アテネオリンピック三段跳びの金メダリストである。
何故、走高跳の話題なのに、三段跳の選手が登場するのか? それはオルソンが元々三段跳ではなく、走高跳の選手としてキャリアをスタートしたからである。10歳で陸上競技を始め、11歳で走高跳1m49、14歳で1m79とそれなりに記録を伸ばしていった。
スウェーデンの国民的英雄パトリック・ショーベリーを育てたビィルヨ・ノウシィアイネンの指導を受けるようになり、さらに走高跳に対し、こだわりを持つようになった。しかし、その思いに反し、18歳にしてようやく2m04と大台超えを達成するスローペースの成長であった。しかし、19歳のとき出場した三段跳びで16m27を記録し、三段跳でも非凡な才能を見せた。走高跳も2m22をマークし、急成長を遂げた。
そんな中、コーチのノウシィアイネンが急死し、オルソンよりわずか2歳上のヤニック・トレガロが選手を引退し、コーチへと就任。2000年には16m97、2001年には17m49と大幅に三段跳びの記録を伸ばし、もはや走高跳専門で三段跳をやる、というよりか、三段跳が専門で走高跳もできる、といった感じになってしまった。この後も、コンディション調整が難しい三段跳びで17m台をコンスタントにマークし、世界記録保持者のジョナサン・エドワーズを試合で破るなどし、三段跳のトップ選手として認識されるようになった。こうして、走高跳のオリンピック出場はかなわなかったものの、三段跳では見事アテネオリンピックで17m79をマークし、金メダル獲得した。

オルソンは結局、三段跳17m79、走高跳2m28(インドア)、走幅跳7m71という跳躍3種目で高い能力を発揮した、稀有の才能の持ち主であった。人間の適正というものはやってみると、意外なところで発揮されることもあるものである。一つのことが上手くいかなくても、他の分野なら成功するかもしれない、という教訓であろう。

参考:『種目変更で世界王者に 三段跳びのプリンス――C・オルソン
Quest for Gold in Osaka
』http://sports.yahoo.co.jp/sports/other/all/2012/columndtl/200812020009-spnavi
IAAF 『Christian Olsson』http://www.iaaf.org/athletes/sweden/christian-olsson-172059

走高跳(真鍋周平)

現役国立大学生、それもスポーツ推薦とかではない一般入試で進学した大学生が2m25をマークし、2004年のアテネオリンピック出場を賭けて、参加標準2m27をクリア出来るかどうかが一時期TVでも話題になるほどであった。
結果としては2m27をクリアできず、オリンピックは夢と化したが、色々な面で話題となったものの、今では誰も取り上げる人はいない。有名になるのは一瞬だが、注目もされなくなるのはあっという間という、世知辛い世の中である。

その人、真鍋周平選手は1982年、香川県に生まれた。身長187㎝の長身であり、走高跳をしていたから長身になったのか、長身だから走高跳を始めたのかは定かではないが、日本人としては比較的恵まれた体型である。
なんと小学5年生からすでにこのマイナーな走高跳を始めており、この時で1m43㎝の香川小学校記録(小5での)をマークしている。
このまま順調に2mジャンパーに、と思ったのだが、中1で165㎝、中2で176㎝と普通の人ならなかなかの記録ではあるが、小学校から天才的記録をマークしていた真鍋選手としては、予想より低調な記録であった。何せ、早い人なら、中2で2mを超えている人もいるからである。彼のHPなどを見ると、この時代は自分の身長以上の高さを超えられるようになるとはとても思えなかったようである。
しかし、中3に入り、走高跳で有名な方に少し指導を受け、踏切距離を遠くするなど、アドバイス通りに練習したところ、あっという間に2mを超えるようになり、2m04までマークした。これは1986年に2m07を跳んでしまった船橋弘司がいるため、香川県記録を破ることができなかったものの、香川県の中学歴代2位、日本中学歴代12位の記録である。
高校に入ってもますます記録を伸ばし、高3では2m20の2015年現在でも歴代6位に残る記録をマークした。もちろん香川県高校記録であり、当時の高校生の中ではぶっちぎりの記録であり、インターハイも何の問題もなく制覇した。

当然、走高跳歴代に残るような記録の持ち主であるため、各陸上有力校から推薦が多数来たが、香川県の進学校である高松高校に在籍していたため、一般入試で大阪大学工学部に現役合格した。(のちに、弟も大阪大学に進学する。彼も走高跳をしていた)。受験勉強によるブランクのため、入学後は記録低迷したが、あまりスポーツに力を入れていない国立大学の劣った環境下においても、独自の工夫で練習し、大学3年の時には日本人トップの2m25㎝の記録をマークした。ここから、オリンピック候補と注目され、しかも大阪大学という難関大学在籍していることから、TV的には美味しい、ということで、取材を多く受けるようになってきた。応用物理学科であり、走高跳のクリアランスを力学的に解析し、頂点をバーのやや手前にした方が高い高さをクリアできるという結果を算出するなど、今までのスポーツ選手にないクレバーさが話題になった。
結局はオリンピック出場はかなわず、大学院修士課程修了後はトヨタ自動車へ就職。その後も試合に出場するも、練習十分でないためか、何とか2mを超える程度の記録にとどまっている。

しかし、走高跳への愛情はすざましいものがあり、走高跳の理論書を自ら編纂し、HP上で公開を行っている。当時まともな技術書などほとんどなかったので、本書が優秀な日本人ハイジャンパーの輩出に役立てられ、我々の期待に応えられる選手が多く生まれることを期待している。
真鍋周平選手の走高跳理論関係HP⇒満天下別館

走高跳(ジェシー・ウィリアムズ)

走高跳シリーズはまだ続きます。
2011年韓国大邱(テグ)世界陸上の走高跳を2m35で制覇したのはアメリカのジェシー・ウィリアムズでした。身長183㎝、ベスト記録2m37ということで、低迷していた走高跳界にあっては超一流の選手でした。小柄なだけに、助走スピードを生かした、珍しい右足踏切の選手です。
大邱世界陸上では2m35までノーミスでクリアする安定感を見せました。
この記録は今の2m40台連発の時代からすると低調に見えますが、2000年代に入ってから、ヴォロニンがアウトドア、ホルムがインドアで2m40をマークした以外、2m40に近づく者さえいなかった頃のため、それなりの好記録でした。
ウィリアムズはノースカロライナの高校時代にはなんとノースカロライナ州のレスリングトーナメントで5位に入っております。走高跳というと、細身で華奢なイメージがありますので、格闘技をやっているというのはギャップがありすぎです。

これだけ世界一の称号を獲得し、普通でない競技経験をしながらも、日本のWikiでは記載すら全くない、というのが、走高跳という競技のマイナーさを物語っております。

走高跳(ステファン・ホルム)

前回、ドナルド・トーマスの話を書きましたが、やはり、ライバルとして取り上げられていたこの人の話は避けることができません。
ステファン・ホルムは偉大なるハイジャンパーであるパトリック・ショーベリーを生んだスウェーデン出身です。幼少の頃から走高跳を始め、1987年の11歳で1m40の記録が残っており、1992年の16歳には2m06と2mの大台突破を果たします。2004年アテネオリンピックでは2m36の記録で金メダルに輝きます。そして2005年のヨーロッパ室内選手権では屋内・屋外合わせ、初の2m40をマークし、世界の超一流の記録と称せられる領域に突入しました。
当然のことながら2007年の世界陸上でも優勝候補筆頭でしたが、ホルムは4位にとどまり、伏兵のドナルド・トーマスに優勝をかっさらわれます。2008年の北京オリンピックでも2m32の4位に終わり、メダル獲得できず、その年に引退しました。

ホルムは身長181㎝と日本でなら長身ですが、スウェーデンの平均身長が約181㎝なので、ほぼ平均並みの身長しかありません。そのため、陸上競技の動画でも『このSmall Guyがクリアしました』みたいな言われ方をしておりました。また、垂直跳びも60㎝程度で、これまた人並みしかないにもかかわらず、頭上59㎝である2m40㎝と、ものすごい高さをクリアしております。
しかし、NHKの番組で放送されたホルムの練習風景では、160㎝以上ある高さのハードルを軽々と連続して超えていきます。また、はさみ跳びでも2m10を超える映像が残されており、垂直跳びが大したことないと言っても、やはり上へ飛び上がる能力は大したものがあるのです。

さすがに長年にわたり鍛錬されてきた技術だけに、あのスピードを上昇力に生かしたジャンプは常人には真似できません。助走スピードが非常に速いため、バーからの距離が1m10㎝(たぶん、もっと離れていると思うが)と遠くから踏切、バーをクリアした後も、助走の速さからか、半回転するかのように落下していくさまは圧巻でした。
日本人選手からもホルム選手並の助走スピードを持ち、器用に高いバーをクリアして楽しませてくれる選手が出てくることを期待します。

走高跳(ドナルド・トーマス)

走高跳という競技自体がマイナーなためか、海外でも幼少の頃には競技をしておらず、他の跳躍力を必要とする競技や、意外な競技から転向して来た方々が結構います。
その中でもバハマのドナルド・トーマス選手は世界レベルでも有名な選手です。彼は190㎝の長身で、元々バハマのバスケットボール高校代表になるレベルの選手でした。特に跳躍力には自信があり、アメリカの大学にバスケット留学していたとき、陸上競技をしている友人から走高跳をやってみるように促され挑戦してみたところ、2006年には2m23㎝の高さを跳んでしまい、本格的に走高跳を開始して1年半後の2007年大阪世界陸上では、優勝候補筆頭であったステファン・ホルムらを抑え、なんと2m35㎝を跳び、優勝してしまいます。走高跳界では全く無名の存在でしたので、大番狂わせでした。早い助走スピードを生かした理想的なフォームで跳ぶホルムと対照的に、素人から見ると、手足をバタバタしたかのようなフォームで世界一になってしまったため、NHKでもホルムとトーマスを比較した番組が特集されるほどでした。

1年半で2m35をクリアし、この調子行けば、2m45の世界記録も簡単に塗り替えるのではないか、と期待されましたが、世の中そう甘い物ではなく、結局、2015年現在でもベストは2007年の大阪大会でマークした2m35を更新することが出来ておりません。(※2016年に自己ベスト2m37をマークしました)

フォームが素人っぽいと言われるトーマスですが、どちらかというと、助走が無くても、長いアキレス腱から生み出される瞬発力だけで上方へ跳ぶ力を生み出すことができるので、ホルムのような早い助走がないと跳べないスタイルとは異なります。ああやって手足でバランスを取らないと、クリアランスで体を上手くヒネることができないため、彼にとっては合理的な動きだったようです。ですので、言うほどフォームが下手なわけではなく、意味のある動きでした。ただし、起こし回転を利用しない跳び方であるため、彼の瞬発力を鍛えない限り限界が来てしまうことが明らかであったため、ホルムのような跳び方を目指しましたが、故障のため、上手くいきませんでした。
ただし、31歳になった2015年現在でも2m34をクリアしており、世界一流レベルにはあります(というか、日本記録より記録が良い)ので、比較的長い選手寿命を保っております。これは彼がパワーフロップという瞬発力重視の跳び方のため、起こし回転利用の跳び方に比べ、足首へかかる負荷が少ないため、選手寿命を延ばす効果があったのかもしれません。世界的には一流の部類ではありますが、それでも、現在ではバーシム、ボンダレンコといった2m40㎝以上を複数回超えている選手と差があるのは否めません。

それでも、非常にインパクトのある選手で、走高跳界の一世を風靡しておりました。また、バスケットボール界から走高跳へ転向する方が出てくることを期待します。

走高跳(織田久史)

全国区では有名でありませんが、走高跳の現在でも兵庫県高校記録2m16㎝を持っている、織田久史選手について記事にします。

実は中学時代に織田選手が市内大会で走高跳出場していたのを生で見ました(ご本人とは特に面識はありません)。この時は足を痛めていたとのことで、1m77㎝(だったと思うが、30年ほど前なので不正確です)で3位に甘んじていました。
当時兵庫県の明石市走高跳界では、植田、織田、清水という3強がいて、この3名が190㎝オーバーの記録を持ち、4位以降は160㎝台と言った状態のため、3強が最初の高さを跳ぶ頃には4位以下が誰も残っていない、という状況でした。
中学時代のベストは、ネットに残っている市内記録や大会記録の資料を整理する限り、植田1m94、織田1m94、清水1m93だったようです。この3強が兵庫県大会くらいまでは上位3人を占めており、他の人が入る余地もありませんでした。さすがに近畿大会とかになると2mジャンパーも存在しており、独占できなかったようです。
中学時代は植田選手が最も大会の成績が良く、記録が見つからないので、はっきりした順位はかけませんが、全中でも入賞していたように思います。高校1年の時には2m05を跳んでいます。清水選手は見た印象、ややずんぐりした感じで、走高跳がそんなに跳べそうな感じではなかったのですが、3種競技の100mでは11秒9で走っていて、結構びっくりしました。そして、織田選手は2番手というイメージでした。
そして、織田は魚住中学から明石西高校へ進学し、高3の時に兵庫県高校記録の2m16㎝をマークします。これも1989年の記録ですが、30年近くたった2015年現在でも破られておりません。高校の時は陸上競技していなかったので、リアルで織田選手を見ることはなかったのですが、176㎝の身長で頭上40㎝を超えるというのはすごいことです。
大学も女子走高跳佐藤恵らも通った、名門の福岡大学へ進学したようですが、大学走高跳20傑内に残っていないので、大学では走高跳をやらなかったのかもしれません。

今まで記事に取り上げてきた日本の走高跳トップの方々は結局苦難の道に挫折したり、別の道へ転向したりといった暗い話しかありませんでした。しかし、織田選手はなんと、株式会社ダイハツ明石西の社長さんとしてご活躍されております。色々と表彰を受けたりしており、非常に優秀な経営者として、違う道でも立派に生きていかれております。

走高跳(境田裕之)

もう昔の人になってしまったので、知る人もいないでしょうが、境田裕之選手の1986年にマークされた中学記録2m10㎝は30年近く経過した2015年現在も更新される気配もなく守られています。また、1989年にマークされた当時の高校記録2m22㎝も戸邉選手に2009年に破られるまで20年間高校記録で、現在でも高校歴代2位となっております。

これだけすごい記録を達成しておりながら、大学、社会人では全く走高跳界の記録に姿を現しておりません。そのことについて記事にしたいと思います。

境田は1986年北海道旭川市立春光台中学校の3年生の時に2m10の日本中学記録をマークします。中学2年までは、ソース怪しいですが、1m70㎝台の記録しかなかったようです。それが急に躍進します。しかし、実を言うと、1986年に中学3年生であった世代は妙に走高跳のレベルが高く、中学歴代上位6人中、境田2m10、船橋2m07、松井2m06、と半数の3人もランキングしております。
ベビーブーム前半の世代で子供が多かったこともあるのでしょうが、はっきりした理由は分かりません。ただ、この世代が中2のとき、神戸で開催されたユニバーシアード世界大会で、当時ソビエト(現在はキルギス共和国)のイーゴリ・パクリンが当時の世界記録2m41をマークして盛り上がったことも関連しているかもしれません。何せ、私の住んでいた地区の当時の中学生の市内大会でさえ、190㎝以上の記録を持つジャンパーが3人もいるという状態で、今なら全国大会トップレベルがうじゃうじゃいた状態でした。

そして、境田が旭川北都商業高校に進学し、高1で2m10、高2で2m19、高3で2m22の当時の高校新記録をマークしました。ただ、ここまでハイレベルな記録をマークしながら、絶対王者だったかというと、そうではなく、高3のインターハイではライバルの海鋒が2m20の大会記録で優勝しています。1989年の高3世代では2m20以上の高校歴代6位タイ以上に境田、海鋒、葛西の3人が入っております。他の世代なら絶対王者として君臨しているような2m20以上の記録にも関わらず、この世代だけは例外です。
才能だけなら、日本記録保持者の醍醐直之以上のものを持っておりました。

当然のごとく陸上名門校の順天堂大学に進学します。ここからはほとんど情報らしき情報は公となっていないのですが、2ちゃんその他の非公式情報を基に記載します。もし、違っていたら、情報下さい。訂正させていただきます。
大学に進学したのですが、陸上競技でも特にマイナー競技である走高跳で食っていくことに疑問を感じた境田は、一つの結論を出します。『走高跳では飯を食っていけない。プロボウラーへ転向する』。当然大学関係者からは猛反対されますが、それを押切り、大学を中退してしまいます。
そして、2004年の情報ですが、この時には旭川ボウルコンパルというところに所属していたので、本当にプロボウラーになっていたようです。ただし、このボウリング場は2007年7月31日に閉鎖とのことで、これ以上の消息は不明です。

こうやって記事を作成していくと、やはりマイナー競技の場合、トップ選手でさえ将来を考えると、競技に集中できるのは学生時代までで、社会人の層が薄くなるのもやむを得ないような気がします。
陸上でマイナー競技選手を雇ってくれそうなところと言えば、富士通、スズキ、モンテローザあたりくらいしか思い浮かびません。一時期話題になった同じく走高跳の真鍋周平選手はトヨタですが、阪大工学系の修士ですので、競技者としての要素以外のことも考慮された可能性が高いです。
誰か、マイナー競技のパトロンになる人がいればいいのですが、2m40くらいクリアして、世界と争えるレベルならまだしも、宣伝にもならないのでは難しいでしょう。

1989年インターハイの走り高跳び動画を優勝した海鋒 佳輝さんがYoutubeにアップロードしているので、貼り付けしておきます。

2m06からなのに何人残っているんだ、というレベルの高さです。

薄紫色のユニフォームの選手が境田選手とのことですが、世界ジュニア選手権後の試合とのことでちょっと不出来なようです。

走高跳(醍醐直之)

現在の走高跳の日本記録は醍醐直之が2006年にマークした2m33㎝です。世界記録は1993年、ハビエル・ソトマヨルのマークした2m45㎝で、既に22年が経過しております。一時期は2m40㎝をマークしたものもほとんどおらず、世界記録更新は絶望的と思われましたが、2014年、2015年にバーシム2m43㎝、ボンダレンコ2m42㎝、ウコフ2m41㎝、プロチェンコ2m40㎝、ドリューイン2m40㎝とアウトドアで5人クリアし、インドアでドミトリク2m40㎝をクリアしております。特にバーシム、ボンダレンコは2m40の高さを割と余裕を持ってクリアしており、世界記録更新も期待されております。

この状況で、日本人の状況はというと、戸邉2m31㎝、江藤2m28㎝、高張2m28、平松2m28㎝と近年クリアできなかった世界陸上標準参加記録を4人クリアするなどレベルアップしてきております。

しかし、マラソンや100mと違い、競技的にあまりにマイナーなため、走高跳トップ選手達も学校卒業後は苦難の道を歩んでいたりします。そういった、陸上競技界以外では話題にもならないトップ選手の実情について、記事にしたいと思います。

まずは日本記録保持者の醍醐直之選手となります。
醍醐は中学生時代ハンドボール部でした。本当はバスケットボールをしたかったようですが、部活になかったため、やむなく選択したようです。中2のときにバスケットゴールへダンクして遊んでいると、陸上部の先生から走高跳をしないか、と勧められました。ちなみにバスケットボールのゴール高さは305㎝あり、ダンクするには手が20㎝以上は出ないとまともにできません。醍醐は中学時代の身長は不明ですが、1m82㎝と長身なので、指高仮に2m30あったとしても1m近くは飛んでいたと思われます。
このほぼ素人状態からスタートし、1995年、中学3年の時には1m92㎝をクリアし、中学ランキング上位にいきなり入ります。
高校に入学してからは、高1で2m08㎝、高2で2m19㎝、高3で2m18㎝と順調に高校歴代でもトップクラスの記録をマークし、注目されました。

しかし、ここまで有り余る才能で走高跳の記録を伸ばしてきましたが東海大学へ進学後、大学1年で2m21㎝をマークした後はこの記録を大学生のうちに超えることはありませんでした。真摯に走高跳へ向かい合えば向かい合うほど、プレッシャーがかかり、精神的に追い詰められてしまったようです。
ぱっとしなかった大学時代でしたが、卒業時に、もう1年走高跳に専念しようということでフリーターをしながら競技生活を続けます。そして2005年には2m27㎝をマークし、世界選手権出場を決め、フリーターの星として注目を受けます。この成果から富士通への入社を決めます。
さらに、2006年日本選手権では2位に13㎝の大差をつける2m33㎝の日本新記録で優勝を決めました。この時はなんと、
2m15○ 2m21○ 2m24××○ 2m27××○ 2m30××○ 2m33××○
と2m24からはことごとく3回目をクリアーするという高い精神力を発揮して、神がかっておりました。
2007年にも2m30をクリア、2009年に年度ベスト2m28、日本選手権2m24で優勝したのを最後に、2m20をクリアすることはなくなり第一線から外れるようになりました。
現在でも2m30以上をマークしたのはわずかに醍醐、君野、吉田、戸邉、阪本の5人で、しかも複数回マークしたのは醍醐、戸邉、阪本の3人しかいないということで、偉大さが分かると思います。

正直、凡人からすれば、大して練習しなくて1m92cm超えてしまうような天才を以てしても、社会人でのマイナー競技継続の難易度は高いことを実感し、こんな状況なのに、オリンピックの時だけメダル獲得が少ない、とか文句を言われるのではやっていられなくなる気持ちが分かります。

参考URL:
富士通陸上競技部 http://sports.jp.fujitsu.com/trackfield/field_eye/05daigo.html
JAAF選手名鑑 醍醐直之 http://www.jaaf.or.jp/fan/player/men007.html